エレックレコードは青春時代の私にとって“学校”そのものだった。
エレックレコードとの縁はまさに偶然だった。1970年4月、私は東大に入学したが2年で中退してしまった。それからは何の目的もない空しい日々が続く。そんなある日のこと、アルバイトの帰りに私は下北沢駅前にある書店に入った。何か面白い本はないものかと物色していると、フォークの神様“岡林信康特集”という活字が目に飛び込んできたので手に取ると、それはフォーク専門の音楽誌『新譜ジャーナル』だった。さっそく買い求めて、近くの喫茶店で岡林特集を読んでいると無性に腹が立ってきた。何だこの記事は、こんなことしか書けないのか?こんなのだったら、俺の方がよっぽどましだ。そんな思いが湧き上がってきた。これでもプロか?そう吐き捨てると、その場で私は思いのたけを文字にしていた。書き上げた論文にメッセージを添えて、『新譜ジャーナル』編集長宛に郵送した。結果的に、この投稿が私に幸運を呼び込むことになる。 投稿して1週間ほど経った頃、「会いたい」という連絡がきた。指定された日に編集部を訪ねると、塚原稔編集長から「あなたの評論おもしろく読ませてもらった。内容も深く自分の意見を素直に述べているところが気に入った。音楽評論家としてやってみる気があるのだったらうちが全面的にバックアップする。ついてはうちがやっている<ディスカバー・ヤング>(ラジオ関東。現在のラジオ日本)というオーディション番組に出てみないか?この番組は、ヤングの優れた才能を発掘して育成しようというもので、DJ、プレイヤー、レポーター部門に分かれているけど、そのレポーター部門に出演して、あなたの意見を思い切り述べてみてくれないか……」
チャンスだ、と思った。「ぜひやらせて下さい」。この一言で私の人生は決まった。
71年秋、塚原編集長の推薦で私は<ディスカバー・ヤング>のレポーター・オーディション部門に出演して100点満点のA級ライセンスを獲得した。音楽評論家への登竜門突破だ。この番組は、当時若者たちの間で注目されていて、札幌テレビ放送、中部日本放送、大阪放送、ラジオ沖縄にネットされていて、A級に合格して以来全国から手紙が殺到した。ケメ(佐藤公彦)、古井戸、生田敬太郎もこの番組でライセンスを取りプロになっていた。この番組の“審査員”のメインだったのが当時エレックレコード専務取締役で吉田拓郎、泉谷しげる、古井戸、ケメ、生田敬太郎のプロデューサーだった浅沼勇さんだ。その浅沼さんに番組終了後「今度エレックレコードに遊びにおいでよ」と誘われたのだ。こうして私はエレックレコードに出入りするようになる。
当時のエレックレコードは“マイナーレコード”、今でいう“インディーズレコード”の新興勢力だった。ひと足早く立ち上げたURCレコードをマイナーレコードのパイオニアとするならば、エレックレコードは新しい時代の旗手だった。70年安保を境にして、眼(意識)が外から内へ向いた結果、60年代の関西フォーク的プロテスト・フォークとはひと味違った、70年代の青春フォークともいうべきメッセージ・フォークが誕生した。関西フォークの雄・岡林信康は「私たちの望むものは」と歌ったが、青春フォークの旗手・吉田拓郎は「私は今日まで生きてみました」と歌った。つまり“私たちの歌”から“私の歌”へという流れの中で、新しいフォーク・ムーブメントを作り生み出していこうとしていたニュー・ウェイブがエレックレコードだったのだ。
エレックレコードで、拓郎、泉谷、古井戸、ケメなどと知り合い、切磋琢磨することで私は自分を磨いていった。アーティストと評論家という付き合いではあったが、いい歌を作ってたくさんの人たちに広めたい、という強い思いは同じだった。程なくエレックレコードに海援隊、佐渡山豊、北炭生、竜とかおる、とみたいちろう……後に山崎ハコが加わったが、私はエレックレコードの“客分扱い”だったので、彼らとも苦楽を共にすることになる。いや、アーティストたちだけではなかった。スタッフ共、お互いの思いは共有していた。私たちはとにかくエレックレコードから本当の意味での“若者の歌”を生み出して全国の若者たちに届けたいと願っていたのだ。その意味では、アーティスト、スタッフ、そして私のようなエレックの親派は共に“同志”だった、と言っていい。その頃、フォークという新しい若者の歌を何とかしたいという共通の夢を持っていた若者たちが集まってきていたのがエレックレコードである。紛れもなくエレックレコードはそんな若者たちにとっての“学校”だったのだ。そんな“学校”の至宝ともいうべき財産が復刻されることは望外の喜びである。今のJポップの母ともいうべきエレックレコードの“生徒”であったことを私は誇りに思っている。
富澤一誠





